心こそ心迷はす心なれ

1970年代の剣道日本の記事です。
以前、千葉県山武市の松武舘にて倉澤照彦範士の講話の中で出た言葉です。
気になっていたのですが、剣道日本を読み返していて見つかるなんて。
様々な教えが以前から脈々と伝えられているんですね。
剣道って素晴しいですね。
極意の歌・四
『心こそ心迷はす心なれ 心に心 心ゆるすな』
とある木こりが、とある深山で木を伐っていたところそこへ[さとり]という獣がやって来たので、
木こり、その異獣をひとつ生け捕りにしてくれん、こう思った。
すると[さとり]のやつ、「そのもとは今、我らを生け捕りせんと思うたであろう」と、
ぬかしやがったから、木こり大いに驚いたところ、[さとり]はすぐに今度は
「そのもと、今、我らにさとられさだめし驚かれたであろう」と嗤いおった。
コニ野郎、斧で一思いにやっちまってやろう、木こりがそう思えば、
「我らを斧で撃ち殺す存念であろう」と[さとり]。
こう心のうちが相手に読まれちあ埒明ねぇ、と思えば、
「とうとうあきらめましたな」こう異獣はねちっこく行ってのけおった。
が、木こりがもはやとりあわずに木を伐りだしたところ、
どうしたはずみか、不意に斧が飛んでしまった。
あやし。斧は[さとり]の頭蓋を割っていた。
千葉周作はこの話を引いて、剣術もかくの如し、
「兎角無念無想の打突きは無くては叶はぬことなり、よくとく練磨すべし」と、言っている。
しかし、人の心は厄介なものではないか。
無念無想にあらん、こう思う心こそ、心迷わす心なのであって、
それではとうてい無念無想の境界にあそぶことはかなわないのである。
柳生宗矩に沢庵があたえたという「不動智」の中に引かれたこの歌は、
人間の心のひとすじなわでいかないものがあることを、
憂えているのかのようである。
さらに同書の中の「思はじと思ふも物をおもふなり 思はじとだに思はじや君」も、
同巧の和歌であろう。
ならば、どうしたらいいのか。
沢庵さんの教えは「不動智」をとくと読んでいただくことにして、
空呑ここで、かの山岡鉄舟の言をかりてみたいのである。
大工が鉋を使うのには、荒しこ、中しこ、上しこの三つの法がある、
鉄舟はこう説ききかせるものである。
荒しことは、つまりは荒けずりのこと。
これを遣うには、体を固め腹を張り、腰をすえ、
左右の手に平均的に力をいれてけずらなければならぬ。
ついで、中しこで平らかにけずるわけだが、
これを遣うにはおのずと手の内の加減がなければならぬ。
さて上しこは、中しこで平らかにけずったうえを、
むらのないようにけずる。けずる対象が1本の柱ならば、
始めから終わりまで、ひと鉋でけずる。
それゆえに上しこを遣うには、心を修めることが第一とされるのだ。
この話に鉄舟は、剣道の修行の三段階あることをたとえているが、
さらに、心・体・業の三つを備えるべきことも、つけ加えている。
心すなわち鉋、体すなわち人、業すなわち柱、と鉄舟は言うのである。
そして説くのに「人がけずると思えば鉋がとどこおる。鉋が削ると思えば柱がはなるる、
そこで心体業の三つが備わると云うは、鉋と人と柱と一所に働くところ、
是が手に入らねば、いつ迄大工鉋の稽古をしても柱をよくけずることはならぬものぞ」と。
が、鉄舟はこう説いたうえ、上しこを遣う秘術を、こっそり、われらに教えてくれるのである。
「その秘術というのはほかでもない。
こころは業の三つを忘れて、ただ、すらすらとゆくところにある。
こうしてこそ仕上げはうまくいく。
(実はこのように)これが仕上げの鉋だと思わないところに、
秘術の何ともいえぬ面白味があるわけさ」
すらすらといく・・・。
なんと神妙な表現であろうか。
しかし、これが無念無想になるための具体的な秘術として認識されるところに、
俗に謂う剣聖の、剣聖たるゆえんのものがあるわけなのかもしれぬ。
ああ、難解なるかな、無念無想。
凡夫空呑にこころ親しいのは、やっぱし、次のような歌でしかない。
いわく、「気は早く心は静身は軽く 目は明らかに業は烈しく」。   文/空呑
剣道日本を読み返してみると、大工棟梁の西岡常一氏が出てきたりと
私たちの業界の人が取り上げてもらったりと面白い。
様々な場面で剣道を通しての教えがあったり、
その逆もあったりととても楽しい記事が見られます。
これから1980年代の剣道日本を読み返していくところです。

 

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