プロフェッショナル

ここ最近、私の人生で絶対に接する事が無いだろう
と思っていた方と面談が続いています。
ビジネスでは物凄く厳しいポジションで毎日を過ごして居られるが想像できます。
・世界に向けて企業コンセプト「~らしさ」を表現する…
・世界最高峰のマシンにコンマ数秒を削る為の超微調整を施す…
・生命の瀬戸際と目を逸らさずに真っ向から向き合う…
皆さん最後は自分を信じて自分で判断をするプロフェッショナルです。
少し想像しただけでその厳しさは伝わってきます。
しかし、プライベートとなると少し違うようです。
日々緊張の中で過ごしているからなのでしょうか…
みなさん自分の生活スタイルや人生のスタイル?って言うのかな??
貴重なプライベートな時間だからこそカッコ良く過ごすのかな?
それとも必然的にカッコ良くなってしまうのか…?
面談中、所々でカッコ良さや素晴らしさを感じます。
そして何より謙虚です。
「なんとしてもこのお施主様の役に立ちたい!」一瞬、
思ってしまいました。
きっとそう言うパワーもお持ちなのでしょう。
私はまだまだプロ意識が低いということの表れです。
毎回そうでなければいけないのに…
私は自分で自分の事を言える様な偉い人物ではありませんし、
謙虚であろうとも全く思いませんが、
色々な方がいるから世の中面白いのでしょう。
「謙虚」を説く人の「不謙虚」  宋 文洲 さん  日経BPより
少し前の記事になりますが、
この記事を読んで気が付く方もまだまだ多いのではないでしょうか。
情けは人のためならず。
謙虚も人のためならず。
毎日、吸収したいことがいっぱいです(^^)

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日経BP より    宋 文洲
僕は謙虚な方々とたくさん出会いました。謙虚さは彼らの言動から自然に滲み出し伝わってくるものです。本人たちが謙虚を意識していないからこそ謙虚なのです。
一方、いつも口で「謙虚」を説く偉い方々がいます。顧客に「我々は謙虚を大切にしているのだ」と語り、「この偉い私と立派な我が社が謙虚だ」と示唆します。部下に「謙虚であれ」と説教し、「俺と組織にもっと従順であれ」と暗示します。
謙虚――。今回はこの極めて東洋的で人格の基本に関わることについて皆様とその本質を探ってみたいと思います。
2人の社長の「謙虚」
ある日、偉い経営者(少なくともご本人たちがそう思っている)が集まる権威のクラブのイベントに誘われました。食事会を挟みながらある社長の講話を聞くことになりました。配られたプログラムには講話時間が30分、講話テーマが「謙虚の心」であると書いてあります。
その社長は結局予定時間を大幅にオーバーし、45分間以上の大演説をし、司会の再三なる合図でやっと未練たっぷりの様子で演台を降りました。100人以上の聴衆の貴重な時間を15分間も無駄に占有して説教をたらした人が「謙虚の心」を説くとは皮肉でした。
先週の「傍目八目」で製造業への偏重について問題提起させていただきましたが、実はその直後に討論会に出席しました。メーカーの社長がいて、彼は社員教育に常に「謙虚」を重視していると語っていました。
僕はGDP(国内総生産)の8割が既に非製造業ですから、非製造業の強化にもっと力を振り分けるべきだといういつもの論点に触れました。討論会の後、その社長が僕に「宋さん、非製造業はたしかにGDPの8割を占めますが、非製造業は単なる金や物を転がしているだけです」と言われました。
僕はすぐ「社長、ビジネスの視点から見れば、製造業も転がしているだけです。原材料、部品、そして人材を転がして商品を売り、利益を手にしています。ビジネスの本質はコストを使って利益を創出することですから、製造業も非製造業も大きく変わりませんよ」と反論しました。
しかし、僕が本当に言いたかったのは「あなたは謙虚を説きましたが、自分以外の産業を蔑視することは、明らかに傲慢ではありませんか」でした。
謙虚は語ってなるものではない
謙虚という言葉は誰でも早く覚えてしまいます。しかし、謙虚の心はそう簡単に持てません。特に偉くなるとそれが難しくなります。
ではなぜ偉くなると、謙虚ではなくなるのでしょうか。それはもともと誰でも謙虚ではないからです。弱い立場にふさわしい振る舞いしているだけで誰もが謙虚に見えるのです。偉くなると同じくその立場にふさわしい振る舞いをするだけで急に「不謙虚」に見えてしまいます。
本当の謙虚さは、立場をわきまえることでもなく、身分にふさわしいことをすることでもなく、立場を乗り越えて人間の価値を対等に認める「心の習慣」だと思います。習慣である以上、言葉によって教えられません。残念ですが、傷つけられたり恐怖に怯えたり、苦難に遭ったりしないと、なかなか心に宿ってくれない習慣です。
偉くない人が謙虚に見えることは、偉い人が傲慢に見えることと、そう変わりません。偉くても弱い人と対等につき合える人こそ、謙虚な人だと思います。弱くても偉い人に媚びない人こそ、謙虚な人だと思います。
謙虚の心を持つには、かなりの人生経験を通じて勝ち取った自信を持つことが必要です。この自信は地位、金銭などの成功によってもたらされるものではなく、その人に内在するものが成熟することによってもたらす絶対的なものです。
あまり言葉に出して語るとついつい謙虚は形であり、礼儀作法であると勘違いしてしまいます。それを口にするだけで、もう謙虚になっている気分になってしまいます。
前述のメーカーの社長は会社の理念に謙虚を書き、外でアピールしています。しかし、彼は自分が製造以外のビジネスを蔑視している傲慢さに気づきません。ご本人は間違いなく自分は謙虚だと思っているでしょう。しかし、彼は謙虚について語らなければ、もう少し謙虚になれたかもしれません。
謙虚は単なる美徳ではない
大人にとって、謙虚が単なる美徳だと理解すべきではありません。人生経験の無い子供たちに「美徳だから」といって謙虚の重要性を教えるのは分かりますが、学校で学べる謙虚は謙虚ではなく、謙虚の作法に過ぎないのです。それでも学ばないよりは学ぶ方がずっといいのです。
しかし、大人の世界は、美徳という単純な理由では、謙虚は本物になれません。美徳だから「他人のためにやっている」という心理が生まれるからです。美徳だから言葉として語って、作法として形にこだわる動機が起きるからです。
謙虚でなければ自分が狭くなる。謙虚でなければ他人が助けてくれなくなる。謙虚でなければ人を愛し、人に愛されなくなる。これこそ我々が謙虚になる原動力ではないでしょうか。
情けは人のためならず。
謙虚も人のためならず。

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